とんぼの宙返り

猫のぬいぐるみ・とんぼの日記

書くことについて

お久しぶりです、とんぼです。

 

さいきんは元気がなくて、ブログを書くことができていませんでした。

せっかく読んでもらえるかもしれないのだから、ほわほわのぬいぐるみ姿をお見せしたいと思っていたのですが、とんぼの体のなかの綿には涙がしみしみで、近いうちにほころんでしまうのではないかと心配です。

 

ところで、書くことによって悲しみを癒すことができると思いますか?

フランスの思想家ロラン・バルトは最愛の母をなくしたとき、日記を書き始めました。※その日記のなかで、こんなことが述べられています。

喪は弱まらない。磨耗もしないし、時間の作用も受けない。混沌として、

不安定で、最初の日も今もおなじように鮮烈なときなのだ。

 

これは、悲しみは何をしても(書くことを通しても)癒されないということを意味しているようです。

しかし、おなじ本のなかにもう一つ、興味深い記述が残されています。

わたしの悲しみは説明できないが、それでも語ることはできる。「たえがたい」という言葉を言語がわたしに提供してくれるという事実そのものが、ただちにいくぶんかの耐性をもたらすのである。 

これは、悲しみを癒すことはできないけれど、書くことが悲しみに耐える力を与えることがある、ということでしょうか。

 

悲しみの具合を比べることが意味のないことだとはいえ、やはり最愛の人を亡くす悲しみとその他の悲しみはおなじではないだろうから、無理やりに忘れるなどして癒すことが可能な場合もあるでしょう。でも、どんな悲しみにおいても、書くことが力を与えるというのは、本当なんじゃないかなと思います。

 

と言いながら、元気のないとんぼはブログすら書けなかったわけですが。

 

書くことと悲しみの関係は、とても興味深いのです。悲しみを癒すことはできなくても、耐える力を与えるというのなら、それだけで文章を書くことの意味とか大切さを語れると思いませんか? 

 

とんぼ

 

※参考文献

ロラン・バルト 喪の日記』(2009)ロラン・バルト著 石川美子訳 みすず書房