とんぼの宙返り

猫のぬいぐるみ・とんぼの日記

わたしの好きな小説について

お久しぶりです、とんぼです。

突然ですが、わたしのいちばん、いちばん好きな小説家は、小川洋子さんという方です。

なかでも大好きなのは『猫を抱いて象と泳ぐ』という作品です。

リトル・アリョーヒンという、"大きくなること”を異常なほどに恐れている、少し変わったチェス指しの少年のお話です。そしてこれは、“誰にも気づかれない場所に、身体を小さくして潜んでいる者“たちの物語なのです。

からくり人形の中に隠れてしかチェスを指さないリトル・アリョーヒン。幼い頃に屋上遊園地に連れてこられ、成長しすぎたため地上に降りられなくなった象のインディラ。あまりに狭い家と家の壁の隙間にはさまってしまい、そこを生涯の居場所とした少女・ミイラ。廃車のバスに住んでいたが、太りすぎてドアを通り抜けられなくなり、そのまま死んだマスター。

とんぼも身体が小さく、持ち主のベッドの上というこの世で唯一の居場所からはほとんど出て行くことはできないぬいぐるみなので、彼らにとても親しみを抱きました。

悲しいのではないのです。みんな自分に相応しいのはその小さな小さな場所だけなのだと、それは仕方のないことなのだと、ちゃんと理解しているのです。

こんなにも控えめで可愛く美しく、何より寂しさをたたえた小説というのは、他には読んだことがありません。

この作品に限らず、小川洋子さんの書く物語は彫刻みたいだと、わたしは思います。例えば猫の彫刻だったとしたら、小さな尖った歯も、見えないくらい細い髭も、しかるべきところにきちんと彫られた、精巧な彫刻です。

夏目漱石の『夢十夜』の1話に、こんなお話があります。

明治時代のある時、運慶という鎌倉時代の有名な仏師が現れます。街中で彼があんまり上手に仏像を彫っているので、その様子を見た見物人のひとりは、木の中に仏様が埋まっているに違いないと考えます。それで、たくさん木材を手に入れて、仏様を彫り起こそうとしますが、なかなか仏様の埋まった木は見つかりません。鎌倉時代のとは違って、明治時代の木には仏様は埋まっていないんだなあ、と悟って見物人は仏像を彫り出すのを諦めるのです。

なんとも滑稽なこのお話は、運慶が生きた鎌倉時代漱石が生きた明治時代を比較した皮肉だとか言われていますが、そんなことはまあ今はどうでも良い。

わたしは、小川洋子さんの作品を読み終えるたび、なぜだかこのお話の、木の中に埋まった仏様を彫る仏師の様子を想像するのです。

なんででしょうね。何もないところに何かを作ったというより、見えていなかったけれど埋まっていたものを丁寧にすくいあげたみたいな感じがするからでしょうか。言葉のひとつひとつ、語尾や助詞、登場人物やものの名前まで、しかるべきかたちで、彫り出されているようです。

以前「小説をアニメにするとしたら、どの作品をアニメにしたい?」と聞かれたことがあって、あんまり思いつかず、『猫を抱いて象と泳ぐ』をあげてしまったことがありました。

でも、これは文章で表現されなくてはいけない作品なのではないかと、今は思い直しています。

とんぼ

ドイグさん

こんにちは、とんぼです。

 

この前、美術展に行きました。

 

ピーター・ドイグという、スコットランド生まれの画家の作品をみてきたのです。

 

現代アートなのですが、キャンバスと油絵の具を用いて描かれる絵は、なんだか懐かしく感じられますね。

彼の作品たちには、今までとんぼが現代アートに触れたときに共通して感じることが多かった瞬間的な輝きやハッとするような熱さはなく、ひんやりと冷たく静かだという印象を受けました。

 

伝わるでしょうか。けっして急がずに、逃さないように、人の中にあるものに触れようと静かに手を沈めていくような、不思議な感触がしました。とくに1990年代に描かれた絵には。

 

それからこの展示では、「みる」という行為と、描かれるものとみる人の距離感に着目した絵の解説も、興味深かった。

ピーター・ドイグの絵を「みる」ためには「入り込む」という行為を必要としている気がしたからです。さっき言っていた、「手を沈めていくような」というのがそれで、彼が描こうとしているものを見るためには、その世界を覆っている液体のような固体のような空気のような何かを通っていかなければならない感じがしました。

 

「入り込む」という言葉だと、こちらが絵に働きかけているような感じがしますが、そうさせているのは実はドイグの方であり、絵の前にいるだけで自由を奪われているようで不気味な感じがするのが、彼の作品の魅力なのだとも思いました。

まさに、「のまれて」しまったみたいでした。

 

はあ。論じるときに感情から離れるということは非常に難しいですね。そろそろとんぼも論じられるようになりたいのですが、なかなか感想文から抜け出せそうにありません。

 

原田マハさんの小説を読んでから、作品自体のことだけではなく、美術展を企画するキュレーターさんたちのこと、作品を守り育ててきたとも言えるコレクターさんたちのことなども、気になるようになりました。

 

まだまだ視野を広げてたくさんの絵をみてみたいと、とんぼは思っています。

 

ではまたね、

とんぼ

 

 

古くて新しいお友だち

またまたお久しぶり、とんぼです。

昨日持ち主が部屋の掃除をしたら、お姉さんが小学生の頃に作ってプレゼントしてくれたというフェルトのぬいぐるみが出てきました。

ビーズの目は今にも取れそうですし、ふくらむことを考えないで作ったペラペラの手足からは、綿がはみ出ています。顔は黒、手は水色、足はピンク、体は茶色。くまなのか、ねこなのか、うさぎなのかも、よくわかりません。

でも、すごくかわいいんですね。ぬいぐるみには、いろんなかわいいがあるのです。

その不思議な友だちは、無邪気な親愛の詰まったかわいいです。

とんぼにかわいいがあるとしたら、ていねいで大切のかわいい、でしょうか。

今日から同じベッドで寝ているので、まずはくまなのかねこなのかうさぎなのか、聞いてみますね。

とんぼとしては、あの子はねこ仲間だと思います。

では

とんぼ

また本のお話

お久しぶりです、とんぼです。

 

とんぼにはどうやらさぼり癖があるようです。

また更新をしない日が続いてしまいました。

 

 この間、『プリズン・ブック・クラブ コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』という本を読んでいました。

これは、刑務所で行われた読書会のことを、そこでボランティアをつとめた女性が語ったノンフィクション小説です。

 

描かれている囚人たちは、入れ墨が全身に入った中年男でもおじいさんでも、なんだか赤ん坊みたいに見えます。そういう真っさらな人たちが(罪を犯した人たちをこう表現するのはおかしいかもしれないけれど)本を読んで語る真っさらな感想はすごく興味深いのです。

 

たとえば、読んだ本を批判して、こんなことをいう人がいました。

 

ニワトリを描写するだけで、二〇ページとか五〇ページとか使ってるんだぜ

 

笑ってしまいます。これは本を読んでいかに自分が変わったかとか、そういう感想よりずっとおもしろいと思いました。

 

でもね、この本、語り手の考え方にすごく引っかかりを感じる本でもあったのです。

 

 それは、「わたしたち」(上)と「囚人たち」(下)の対比の構図が文章のあちこちにあったからです。たしかに著者の方が囚人たちより難しい本を読めるかもしれません。指導する立場だから多少上下関係もあるかもしれません。でも、それって著者が上流階級の人間だからなのですか?

 

この本を読んでいると、著者やそのボランティア仲間より、囚人たちの方が魅力的な人間に思えます。友だちになったり、先生になってもらったりして、一緒にお話したいと思ってしまうくらい。

お金を持っていることや、優れた教育を受けてきたことが、必ずしも人間性に関係するわけではないというのは、本をたくさん読んだならわかりすぎていることではないのでしょうか。

 

 とんぼは善悪がわからなくなってしまいました。ボランティア活動に打ち込む真っ当な人より、人を殺してしまったり強盗を繰り返した罪人の方に感情移入してしまったのですから。

 

この本を刑務所読書会の課題本にしたら、みんなはどんな反応をするのでしょう、ぜひまた読書会を開いてみてほしいです。

 

 

 

とんぼ

物を見る

こんにちは、とんぼです。

 

とんぼが読んだことのある本に、こんな一節がありました。

 

あなた何かを見よう見ようってしてるのよ、まるで記憶しておいて後でその研究する学者みたいにさあ。小さな子供みたいに。(略)リュウ、ねえ、赤ちゃんみたいに物を見ちゃだめよ。

 

この警告をされたリュウという少年は、暴力やドラッグにまみれた異常な世界のなかで、ただそこにい続けて、目に入ってくるものをただひたすらに見ています。

彼に対して恋人のリリーは、そんなことをしていたらふつうじゃいられないのよ、と警告するのです。

 

 

とんぼは最近、自分は自分自身に関するあらゆる出来事を、遠くから傍観しているようなところがあるなと自覚することがありました。かなしいことが起こっても、怒っていいようなことが起こっても、みんなに共通することで言えばCOVID-19のせいで理不尽な目にあっても、感情を動かさないように、心が揺さぶられないようにしている。

 

これは、見よう見ようとして見過ぎているのでしょうか、それとも目をつぶって見ないようにしているのでしょうか。

 

どちらも、きっといつかだめになるのでしょう。

だって、リュウは物語の最後、狂ったように苦しみました。

 

 

見るものを選ばなくてはいけない。そして選んだものはしっかり見なくてはいけないのだと思います。これは、自分に関する出来事だけではありません。世界中の汚いもの残酷なもの、なんでも見ることができる時代になってしまったから、もっとわかっていなくてはいけないのです。

 

 

ちいさなとんぼの感想文でした。 それでは。

 

 

とんぼ

 

 

 

引用は『限りなく透明に近いブルー』(村上龍)から

宇宙のダンディちゃん

おはようございます、とんぼです。

最近はというと、『スペース⭐︎ダンディ』を見てアニメーションに感心しながら笑っています。

とんぼは、エンディングの製作に関わっているやくしまるえつこさんがとても好きなのですが、作品に触れるたび、彼女は未来の宇宙からやってきたのではないか、と勘ぐってしまいます。

にゃんにゃんにゃんにゃにゃん Hi,ダンディ

やくしまるえつこさんが歌うと、ねこの鳴き声もまるでなにかの呪文のようですね。

ところでこの前、花火をする約束をしました。今はそれを楽しみに生活しています。

とんぼは花火大会より、公園でやる小さな花火が大好きなのです。

ほんとうなら毎日やりたいくらいですが、体が燃えてしまわないように、控えています。

宇宙で花火をすると、どうなるのでしょうね。線香花火は落ちないのでしょうか。気になります。

とんぼ

書くことについて

お久しぶりです、とんぼです。

 

さいきんは元気がなくて、ブログを書くことができていませんでした。

せっかく読んでもらえるかもしれないのだから、ほわほわのぬいぐるみ姿をお見せしたいと思っていたのですが、とんぼの体のなかの綿には涙がしみしみで、近いうちにほころんでしまうのではないかと心配です。

 

ところで、書くことによって悲しみを癒すことができると思いますか?

フランスの思想家ロラン・バルトは最愛の母をなくしたとき、日記を書き始めました。※その日記のなかで、こんなことが述べられています。

喪は弱まらない。磨耗もしないし、時間の作用も受けない。混沌として、

不安定で、最初の日も今もおなじように鮮烈なときなのだ。

 

これは、悲しみは何をしても(書くことを通しても)癒されないということを意味しているようです。

しかし、おなじ本のなかにもう一つ、興味深い記述が残されています。

わたしの悲しみは説明できないが、それでも語ることはできる。「たえがたい」という言葉を言語がわたしに提供してくれるという事実そのものが、ただちにいくぶんかの耐性をもたらすのである。 

これは、悲しみを癒すことはできないけれど、書くことが悲しみに耐える力を与えることがある、ということでしょうか。

 

悲しみの具合を比べることが意味のないことだとはいえ、やはり最愛の人を亡くす悲しみとその他の悲しみはおなじではないだろうから、無理やりに忘れるなどして癒すことが可能な場合もあるでしょう。でも、どんな悲しみにおいても、書くことが力を与えるというのは、本当なんじゃないかなと思います。

 

と言いながら、元気のないとんぼはブログすら書けなかったわけですが。

 

書くことと悲しみの関係は、とても興味深いのです。悲しみを癒すことはできなくても、耐える力を与えるというのなら、それだけで文章を書くことの意味とか大切さを語れると思いませんか? 

 

とんぼ

 

※参考文献

ロラン・バルト 喪の日記』(2009)ロラン・バルト著 石川美子訳 みすず書房